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▼江戸吉原サイドメニュー
1.吉原以前 2.吉原誕生 3.吉原細見 4.大尽遊戯 5.花魁道中 6.手練手管 7.苦界十年 8.吉原刑罰
9.鳥屋楊梅 10.妓楼周辺 11.娼妓置屋 12.揚屋私娼 13.吉原消沈 14.吉原用語 15.参考文献

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8.吉原刑罰 … 吉原内での決りごと

客の未払い〜桶伏せ
飲めや歌えのどんちゃん騒ぎで一夜を過ごした翌朝、支払う時になって勘定が足りなくなることはよくあったようで、最初っから持ち合わせがないのに登楼するなどという不心得者もたまにいた。
勘定が足りなければ取り立てをしなければならない。
本人の身内など支払いのできそうなところに不足分を払ってもらうのだが、そこまで本人を連れていっては途中で逃げられる恐れがあるので、本人や連れがいる場合はひとりを吉原内で軟禁状態にしておく。
本人を通りにひきだし、側面に外を覗けるぐらいの四角い穴を開けた、人がひとり入れるぐらいの大きさの桶を逆さにして、上からかぶせるのである。
逆さの桶の上に大きな漬け物石を乗せれば逃げることはできない。
新吉原開設から十数年間、このように晒しものにする「桶伏せ」は行なわれていたという。

客の未払い〜付け馬
若い衆が客が用立てのできるところまで一緒に同行することを「付き馬」という。
また、付き馬を代行するところもあった。
馬屋とか始末屋と呼ばれているもので、中見世以上は前者へ、小見世以上は後者へ客を引き渡して取り立てを依頼し、これでも回収できないと始末屋は客の衣類はもちろん、持ち物一切を取り上げ、夏は裸、冬は古浴衣1枚で放り出した。
請負金額は不足金額の7割または半額。
このような商売が成立しするほど、料金不足の客は相当いたのであろう。
「付け馬屋」は岡っ引きも兼ねていることが多い。

浮気をしたとき
馴染みの遊女がいるにもかかわらず、ほかの遊女に浮気してバレちゃった男には、やはり相応の辱めが待っていた。
つかまった男は遊女の座敷に通され、羽織や帯を解かれて薄着1枚の格好にさせられる。
そして花魁や番頭新造などから馴染みがいるのに、どうして向こうに登楼したのかと何度も詰問され、顔に墨を塗られ、嘲笑され、腹が減ったからといって何も食べされてもらえない。
やがて男が何度も謝り、花魁の気がすむと、二人は仲直りの盃を酌み交わし、男は総花と呼ばれる祝儀を払ってようやく解放されたのである。

商品に手を出したとき
女の子を商品だとする現代の風俗店では、従業員の男はそれに手を出してはいけないとしているところが多い。
当時の吉原でも若い衆と花魁が深い仲になるのは御法度であった。
ほかの店や奉公人にしめしがつかなくなるという理由のほか、若い衆が地色(いろ)になっては花魁が他の男に肌を許さなくなり、稼がなくなるのを恐れていたのかもしれない。
こうなったら若い衆はクビにしても商品である花魁をクビにするわけにはいかない。
そこで遊女を折檻することとなる。そのやり方は、柱や木に縛りつけて打擲したり、数日間、食事を与えなかったり、夏なら手足を縛って押し入れにも放り込んで蚊責めにしたり、冬なら裸にして冷水を浴びせたりと凄まじいものだった。
遊女がある程度、歳がいっていれば若い衆と所帯を持たせてやることもあったようだが、このようなことは異例だった。

堕胎を拒否したとき
堕胎の場合は折檻するまでもなく、無理矢理手足を板などに縛りつけて身動きできなくし、取り上げ婆や中条流と呼ばれる者が堕胎をしたこともあった。

お茶を挽いたとき
売れ残ってお茶を挽くことの多い遊女は、見世にとって不要なので、女衒(ぜげん)に頼んで岡場所に売り飛ばすこともある。
これを住み替えといい、遊女は希望をまったく無視された上に借金はさらに増えて、年明けは夢のまた夢、抜け出すこともほとんどできない蟻地獄的状況に陥ってしまうのであった。

坊さんが吉原に来たとき
坊さんは吉原に通うことはもちろん、女と密通するのは厳重に禁じられていた。
女とセックスしたことが発覚すると女犯の罪といって遠島、江戸からなら八丈島あたりへ島流しとなった。
しかし、吉原のあった浅草田圃といえば近くには浅草寺を筆頭にいくつもの寺があり、坊さんといえども人の子、中には辛抱たまらんとばかりに吉原に行く不届き坊主もいた。
当時は医者も頭を丸めていたので、坊主は医者に化けて吉原に通ったという。

遊女の逃亡
身請けをしてくれる人はいない、しかし、廓勤めはご免だという遊女は逃亡を企てる。
若い衆のなかに不寝番(ねずのばん)といって、廊下や各部屋の行灯に油を注いでいる者がいた。
彼らは定期的に楼内を回って明かりを絶やさないようにしたり、逆に火の用心をしていましたが、さらに重要な役目がするほか、遊女の逃亡や心中に対する警戒を怠らなかった。
吉原から逃げるには、大引けすぎの皆が寝静まったころにそっと塀を乗り越えて廓を抜け出すか、まだ大門の開いている時間にそこから逃げるかの二つに一つしかない。
遊女が男装していれば、深夜の大引け前だと見張りをごまかし、運よく逃げられることもあったという。
遊女は多くの場合、親密になった客の男に手引きしてもらって、ふたりで一緒に命懸けで逃げた。
遊郭内では遊女が逃げたことがわかると、若い衆や捜索を頼まれた地回りなどが八方に散って行方を追う。
捕まってしまうと男はすかたんに殴られ、蹴られ、女は後ろ手に搏られて廓に連れ戻された。
その後、遊女は楼主や遣り手から折檻され、捜索にかかった費用の一切を背負わされて、さらに借金を増やしたのであった。

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