O
U
T
o
f
I
L
O
L
U

▼江戸吉原サイドメニュー
1.吉原以前 2.吉原誕生 3.吉原細見 4.大尽遊戯 5.花魁道中 6.手練手管 7.苦界十年 8.吉原刑罰
9.鳥屋楊梅 10.妓楼周辺 11.娼妓置屋 12.揚屋私娼 13.吉原消沈 14.吉原用語 15.参考文献

Contents

HOME
Readme
Diary
Fu-zoku
Yoshiwara
Sex Lage
STD
TEXT
Collection
Material
Pet Room
LINK
MAIL
11.娼妓置屋 … 吉原以外の娼婦たち1

岡場所
岡場所とは、市内各所にあった吉原以外の売娼街のこと。
もぐりの売春、江戸の私娼屈の総称である。
もちろん幕府非公認。
遊興費も安く、堅苦しさもなく、一般の町人を中心に人気を集めていた。
隠し売女は、いつの時代も旅篭・風呂屋・水茶屋・料理茶屋などを基盤として発生し、盛大になりと、しばしば当局の手が入って縮小し、あるいは壊滅した。
こうした消長を繰り返しながら、宝暦から明和にかけて、江戸の岡場所はその組織を確率していった。
時あたかも田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治下にあり、風俗取締りが比較的ゆるやかだったことが原因でもあろう。  
岡場所の「岡」は局外の意味で、岡目八目、岡惚れなどの「岡」がすなわちこれに当たり、唯一の公認遊里新吉原を本場所と考えていたのに対して、それ以外の遊所を意味する言葉となる。一説に「他場所」のなまった言葉ともいわれている。
また、土地土地によって岡場所はそれぞれの特徴を持つ。
谷中のいろは茶屋や高輪の七軒には坊主客が多く、根津は 大工を始めとする職人客を喜ぷ。
深川は木場の番頭や酒間屋・米間屋の手代などが常客といった工合に、客種もまたそれそれに異なるのである。

岡場所〜子供
岡場所の娼妓は一般に「子供」と呼ばれている。
そしてこの子供は、二つの種類に分けられる。
一つは妓楼(茶屋)に抱えられている伏玉(ふせだま)と呼ばれる遊女、もう一つは通いの遊女で、これを呼出(よびだし)といった。
呼出にはさらに娼妓置屋に抱えられている者と、出居衆(でいしゅう)と称される自前の娼妓の二種類がある。
岡場所の娼妓は年齢もまちまちで、出居衆の中には亭主持ちや子持ちもいた。
また、吉原の高妓だった女が流れ流れて私娼に転落することも珍しくない。
吉原は官許の遊里であるだけに、年季は厳重に守られるから、身請けされなくとも、年季を過ぎれぱ廓を引かなけれぱならない。
したがって年をとった傾城(けいせい)が、引き続き商売するとすれぱ、どうしても岡場所へ入ることになるのである。

江戸四宿〜飯盛女
岡場所の代表格である江戸四宿。
日光・奥州街道は千住、中山道は板橋、東海道は品川、甲州街道は内藤新宿と、それぞれが江戸江戸の四隅にある街道の出発点の駅にあたっていた。
四宿の宿場女郎は、飯盛り女として一軒につき二人までと定員が決められて売春が黙認されていたので、他の岡場所とは異質の存在であった。
厳密には宿場の遊女は飯盛り女、あるいは縮めて飯盛りと呼ぶが、品川宿では吉原の中だけに通用する花魁という呼び方も普通に使われていた。
こちらを南(洒落て美南見とも書く)というのに対して吉原のことを北、あるいは北国と呼んでいた。

深川遊里
品川を南、吉原を北というのに対して、深川は江戸城から見て巽(たつみ、東南の方角)にあることから辰巳とよばれていた。
江戸四宿とともに吉原最大のライバルであった。

ちょんの間
余暇の乏しい、懐工合もそれほど豊かでない職人や商家の使用人たちは、時間のやりくりをして遊ぱなけれぱならないので、岡場所の多くは切遊びを原則とする。
切遊ぴとは時間ぎめの遊ぴのことで、いわゆるちょっきり・ちょんの間のこと。
特に深川はどこでも大体昼夜を五つに切って、一切の揚げ代金いくちという値段がきめてあった。
江戸の岡場所では、一切銀十二匁、昼夜仕舞七十二匁(寛政期)の深川仲町を最高とし、ちょんの間五十文、二十二文の西谷鮫ケ橋や井野堀などの卑媚まで、千差万別の値段のあることがわかる。
深川遊女で一時間七千円、酒を頼んで一万から一万五千円といったところ。

直し
ちょんの間遊ぴが原則の岡場所では、時間が来ても女を放したくない、さらに時間を延長したいという場合、これを「直し」と称し、追加料金を支払う習わしがある。
「直し」は茶屋にとって大いに歓迎するところで、特に「朝直し」は居つづけを意昧するところから、深川ではこれを「大直し」といい、茶屋からのサービスとして、直し肴が供された。

割床(わりどこ)
高級な深川の料理茶屋にしても、一座敷に一客を寝かせるということはまれである。
二〜三客から多いときには五客くらいまでの相部屋は、当然党悟しなければならない。
この場合、寝床の仕切りは廻し屏風で、これを割床(わりどこ)という。
天明七(一七八七)年暮れから八年にかけて、日本橋の中洲に新吉原の仮宅ができたとき、仮宅もまたこの割床の様式を採用している。
中洲仮宅をとりこんだ黄表紙『縞黄金肌着八丈』(寛政元年)に、「なにさ、屏風をひつくりかヘしたり、あたまを踏まれるをみては地獄の方がまだましだ」とあるのはこの割床混雑の状況で、吉原の河岸見世ならいざ知らず、一流娩楼ではあり得べからぎることであった。
それが、天明七年の吉原大火後の臨時営業仮宅では口常茶飯の出来事とり、中洲に借りた家も狭く、遊客がわんさと押しかけたので、このようなてんやわんやの騒動となった。
これは、岡場所の割床以上に窮屈だったからで、「地獄(私娼窟)の方がましだ」の評もうなずけるのである。

▲ページトップへ

©1999-2003 Kaori Tanaka All rights reserved.