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▼江戸吉原サイドメニュー
1.吉原以前 2.吉原誕生 3.吉原細見 4.大尽遊戯 5.花魁道中 6.手練手管 7.苦界十年 8.吉原刑罰
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12.揚屋私娼 … 吉原以外の娼婦たち2

散娼(さんしょう)
私娼には、散娼(さんしょう)と集団娼(しゅうだんしょう)の二種類がある。
組織によって身の安全を守ることをせず、多くは個々の意志によって、その営業地域を選択するのが散娼。
狐影悄然と街頭に立ち、客の袖を引く者あり、水茶屋女のひそかに男をたらすあり、出合い茶屋を舞台に稼ぐ者、橋下や苫船(とまぶね)をねぐらとして出没する者、これらはすべて個人営業の娼婦である。

集団娼
一定の地域に蝟集(いしゅう)して、 いつか密淫売の組織を形成するものがある。
多くは神社・仏閣の門前町に巣喰い、休茶屋・水茶屋を揚屋(遊女のために提供される座敷)として営業する、あるいは埋め立て新地の料理茶屋が当局のお目こぼしによって売女を置きこれを基盤として花街を形成する場合もあった。
一見茶屋に見えるのはカモフラージュのためである。

湯女(ゆな)
湯屋の垢すり女が浴室で客の背中の垢をすり、その二階では男の相手をするというもの。
安いし簡単に抜けると、たちまち江戸市中にそのような面倒もみる湯屋があふれだした。
湯女は幕府公認ではないが黙認されていて、一軒につき三人までという条件つきで営業されていた。
明暦三(一六五七)年にはついに全面禁止となり、多くの湯女が吉原に送られたという。

夜鷹
夜間、街頭に出て客を取り、材木置き場や樹木の陰にむしろを敷いて行ったので夜鷹と呼ばれた。
屋台のかけそばが一杯十六文だった時代に、一回二十四文が相場であった。
「提灯で夜鷹を見るはむごいこと」などの川柳にあるように、夜鷹は年寄りも少なくない。厚化粧をしていて薄暗がりのところで商売するので、歳はけっこうごまかすことができたのである。
明かりさえなければ。
本所吉田町が代表の夜鷹も捕まると吉原送りにさた。
また吉田町は別名・花散る里とも呼ばれ、花散る=鼻が落ちるということから梅毒持ちも少なくなかったといえる。
局見世はこういう遊女の巣窟のようなものである。

綿摘(わたつみ)
本来は衣服用の綿を紡ぐ女のことだが、これを表向きの職業とし、ひそかに客を取るものも多かったという。
作業所の経営者が女たちに組織的に売春をさせていたという例もある。

提重(さげじゅう)
提重というのは手提げの重箱のことだが、この場合はそれを持って色を売り歩く女のことをいう。
菓子などを入れて女商人のふりをして商売をした。
若く美しい女が多く、家計を助けるための主婦売春も少なからずいた。

船饅頭(ふなまんじゅう)
停泊中の船に饅頭を売るのを目的としたので付けられた。
この場合の饅頭はもちろん女性自身のこと。
川岸で客を船に乗せて大川に出て、また戻るまでの間にすませて料金は三十二文。
夜鷹より高いのは船頭が必要だし、船の借り賃もあるからだろう。
夜間なので顔が見えず、中には足腰のたたない老婆もいたというが船の中では逃げようがない。

比丘尼(びくに)
比丘尼、つまり僧そっくりの格好をしている娼婦で、熊野神社の御符を売り歩いていた本物の比丘尼が売春を行っていたのが最初だという。
江戸初期が全盛であった。

矢取女(やとりおんな)
盛り場や寺社境内の楊弓場の矢取女(やとりおんな)は、主に春を売るのが本職である。

茶店
水茶屋 休み茶屋とも呼ばれ、看板娘を置いて客に茶を呈すると同時に売春も行っていた。
茶屋の奥に座敷を抱え、そこで茶汲み女が春を売ったのである。
出合茶屋 出合茶屋とは今日でいうラブホテル(連れ込み宿)のことである。
料理どころなどの看板でカムフラージュされ、不義密通の場に使われていた。
陰間茶屋 今の新宿2丁目とでも言うべき場所が江戸時代にもあった。
陰間というのは江戸時代の男娼のことで陰間茶屋は男色専門の茶屋のこと。
若衆、色子などとも呼ばれるが、男色趣味はこの時代ほぼ当り前のことであった。
陰間には役者修行中のものが多く、芝居に出ているものを舞台子と色子というが、女形役者の大成に少しは役にたったといえる。
陰間としては十二から十八歳くらいの美少年時代しか通用しないから、二十歳を越えた頃には今度は女性の相手を務めたという。
陰間の主な客僧侶で、女色が禁じられた坊さんでも男色は自由であった。

私娼の取り締り
戦前、当局による密淫売の手入れを臨検といったが、江戸蒔代にはこれを警動と称した。
隠し売女を取り締まるのは、幕府の法律によるのであるが、町奉行当局は、よっぽどのことがない限り独自で行動を起こすことはなく、吉原町からの訴願によってのみ役人を出動させるという慣例があった。
もっとも、寛政改革、天保改革の折には、積極的に大規模な私娼摘発が行われたが、これらはむしろ例外といえる。
つまり幕府側にとってもある程度の売春地帯の存在は、江戸の治安の上では必要悪と考えていたふしが見える。
江戸にあふれる男たちの性のはけ口がなくなってしまっては、いつどんな暴動が起きるか分からないのだ。
だからといって、新吉原町からの訴願があれぱ、隠し売女を放置しておくわけにはいかなかった。
捕えられた私娼はすべて新吉原町へということで、廓内妓楼主人の入札によって競売に付せられた。
女たちは最長で三年間、無償の廊勤めをしなけれぱならなかった。
吉原では、このようにして捕えられて来た岡場所の女たちを、奴女郎(やっこじょろう)と称して軽蔑したが、まれには元深川女郎の勝山のように、奴女郎の中から、吉原に全盛を謳われる名妓が生まれることもあった。

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